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後期ウィトゲンシュタイン哲学における文法と必然性

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 大学の卒業論文をここに転記しておく。オリジナルファイルを紛失してしまい pdf からコピペしたものなので、ところどころおかしな部分がある。後日修正する。

 今読み返すと至らない点ばかり目につくが、後期ウィトゲンシュタイン哲学の簡単な解説として多少の意義はあると思う。少なくと自分の立脚点の一つではある。

1.はじめに

1−1.概要

 本論の⽬的はただひとつ。『哲学探究』(以降『探究』と表記する)第371 節「本質は⽂法の中で述べられている*1」という表現の⾔わんとすることを明らかにすることである。というのも、ここで述べられていることこそが後期ウィトゲンシュタイン哲学をつらぬく通奏低⾳であり、「⾔語論的転回」の中核をなす⾶躍であると思われるからだ。その内容をかんたんに述べれば、対象や事実といったものは⾔語表現のうちではじめて現れてaくるものであって、⾔語から独⽴して実在するものではない、ということである。換⾔すれば、対象の背後になんらかの〈本質〉なるものが隠されているわけではないということだ。ウィトゲンシュタインによれば、⾔語表現の背後にア・プリオリな秩序を想定する傾向が哲学的問題を⽣み出しているのであって、かれの⽬的は、その⼿の問題が⾔語のある特定の使⽤に紐付いたナンセンスな命題であることを明らかにすることにあった。 

 本論ではまずウィトゲンシュタインの⾔語哲学を⼀通り確認する。そしてその⾔語哲学のひとつの極限として、かれの数学の哲学を検討する。『論理哲学論考』(以降『論考』と表記する)がまさに論理のア・プリオリ性に基づいた体系であったように、われわれには、論理や数学を、確実で普遍的な、⼈間とは独⽴の実在と⾒なす傾向がある。この傾向性を論駁し、論理と数学の普遍性という権威を失墜させない限り、あらゆる哲学的問題が⾔語論的であると⾔い切ることはできない。したがって本論では、数学や論理を成⽴させる「規則」についてウィトゲンシュタインに従う形で考察し、規則がわれわれの「⽂法」に従うものであること、それがなんら超越的な性格を持たず、ただ⼈間的なものにすぎないことを明らかにする。 

1−2.ウィトゲンシュタインの意図

 ウィトゲンシュタイン哲学の具体的な検討にうつる前に、かれの哲学に対するスタンスを明らかにしておくことは有⽤であろうと思われる。ウィトゲンシュタインの⽣前に刊⾏された書物は『論考』と教員時代に書かれた『⼩学⽣のための語彙集』の⼆冊のみであり、その他のテクストの多くはかれの死後、膨⼤な思索ノートを編纂する形で刊⾏された。それらはウィトゲンシュタインと哲学の⽣々しい格闘の痕であり、その内容はしばしば混乱している。様々な主張が検討され、そのどれがかれ本来の思考であり、たんなる反駁対象であるのかはっきりしないこともある。したがって、それらテキストを統⼀的に解釈するにあたっては、かれがどのような⽬的を持って哲学に取り組んでいたかを明らかにすることが重要である。さて、中・後期ウィトゲンシュタインは哲学を⼀貫して「治療」として捉えていたと⾔われている。この治療としての哲学というウィトゲンシュタインの態度をもっとも端的に表現しているのは、哲学探究の次の⼀節であろう。

 哲学におけるあなたの⽬的は何か。――ハエにハエとり壺からの出⼝を⽰してやること。*2

かれにとっては哲学的問題とは、哲学者が⾔語を⽇常的な意味とは別のしかたで使⽤するさいにのみあらわれるナンセンスな命題であり、哲学的問題の解決とは、それがじつは問題ではないことを⾒て取ることであった。ハエとり壺から出てゆくためには、⼊ったところから出ればよい。その意味で、ウィトゲンシュタインにとって哲学的問題は解決されるものというよりも解消されるものであった。 

哲学は、いかなるしかたにせよ、⾔語の実際の慣⽤に抵触してはならない。それゆえ、哲学は、最終的には、⾔語の慣⽤を記述できるだけである。

なぜなら、哲学はそれを基礎付けることもできないのだから。

それはすべてのものを、そのあるがままにしておく。 それは数学をも、そのあるがままにしておくのであり、いかなる数学的発⾒も哲学を前進させることができない。「数学的論理学の主要問題」は、われわれにとっては、その他の問題と同じく、数学の⼀問題である。*3

 ここから読み取れる中・後期におけるかれの哲学の雰囲気は、存在論的で超越論的であった前期のそれと⼤きく異なっている。『論考』においてウィトゲンシュタインは哲学的問題の最終的解決を宣⾔した。だがここでのかれはもはや哲学が⾔語や数学の問題を解決しうるとは考えていない。哲学はなにも基礎付けはしない。ただ⾔語の慣⽤を記述し、そして哲学的命題がその慣⽤を無視した使⽤を含んでいることを⽰唆すること。そうした⾔語の⽣態学とでも呼ぶべき⽅法が、治療としての哲学の中⼼的な⽅法論である。さてかれによれば哲学的問題の典型は次のような形をしている。

哲学的に困惑している上の⼈は、或る語が使われる仕⽅の中にひとつの法則を⾒つけ、その法則をすべてに⼀貫して当てはめようとして、⽭盾する結果に終わる事例にぶつかるのだ。*4

哲学、我々がこの語を使う場合の意味での哲学とは、表現のかたちが我々に及ぼす幻惑に対する闘いである。*5

ここで問題になるのは、ある語や観念には、語の使⽤に⼀貫した規則=意味が存在する、という考え⽅である。ウィトゲンシュタインが批判したいのは、まさにこのような考え⽅であった。⾔葉には⼀個のものとしての本質的意味があるのではなく、その語の使⽤規則、意味は、家族的類似を成している。こうした⾔語観を転回にするにあたっては、まず意味というものの本性を詳しく分析してゆかねばならない。この「⾔語の慣⽤」に焦点を当てたウィトゲンシュタインの⾔語観は、哲学的⽂法、⾔語ゲームへと結実してゆく。次章ではこれらがいったいどのような概念であるかを具体的に検討していく。 

2.ウィトゲンシュタインの⾔語観について

2−1.⾔葉の意味とはその使⽤である

 ウィトゲンシュタインの⾔語観は「⾔葉の意味とはその使⽤である」という表現に集約されていると思われる。だが⼈はふつう「意味がわかっているから⾔葉を使⽤できるのではないか?」と⾔いたくなる。もちろんその通りであって、だからウィトゲンシュタインのこの⾔葉の⾔わんとすることを正しく把握するためには、かれがこのように主張する背景にある問題意識に⽴ち⼊らねばならない。かれの哲学が「治療」としての哲学であったことを思い出そう。かれは哲学的困難はある仕⽅で⾔語を使⽤した際に⽴ち現れてくる⼀種の病であると考えていた。この病は⾔葉の意味の問題と深く関わっている。

 ウィトゲンシュタインは『⻘⾊本』で「時間とは何か」という問いを例に挙げている。哲学者たちは古来より、こうした概念の本性を明らかにしようと思い悩んできた。だがウィトゲンシュタインは⾔う。「時間とは何か」という問いはそもそもナンセンスなのであって、「時間」という⾔葉の本来の⽤法からずれた仕⽅でそれを⽤いているのだ、と。われわれは⽇常⽣活において何の問題もなく「時間」という概念を使っている。カップラーメンにお湯を⼊れて三分待ったり、ある時刻を決めて待ち合わせをしたり、といった⾵に。その限りにおいて、哲学的な困難はまったく⽣じてこない。すなわち、「時間」という概念は⽇常の⽤法において問題なく機能している。だがひとたび「時間とは何か」と問いはじめると、底のない思考の泥沼に陥るのである。

 こうした泥沼は、実は時間のような抽象概念に限らない。たとえば「リンゴとは何か」という問いに対する⼀般的な答えは「⾚い果物だ」とか「知恵の実だ」とかである。そして⼈はふつうその答えに納得する。だがここにおいてさらに、⾚さとは何か、果物とは何かと問いかける余地は残っているのであって、当然のことながらこれらの問いは無限に続く。ゆえにわれわれは〈リンゴの本性〉を問いによって明らかにすることはできなさそうに思える。

 だが⼀⽅でわれわれは「リンゴ」という語をごく普通に使っている。この⼀⾒相反するように思われる事態をいかにして説明するか?もっとも素朴で直感的な説明は、われわれはリンゴや時間の本性についてすでに知っているからそれらの概念を使⽤できているのだ、という考えである。だがこの考えが何も明らかにしないのは明らかだ。われわれの持つあらゆる対象についてその説明責任を神に放り投げるようなものだからだ。⼀⽅でわれわれの知的探究においては、「解明」と呼びたくなるような事態が⽇々発⽣している。物理学は時空の相対性を明らかにしたし、⽣物学はDNAを解読し改変するところまで来ている。こうした情勢にあって、「時間とは何か」という問に答えが出せるのではないかという哲学者の期待を抑えるのは難しい。もちろん、物理学の成果を⾒た哲学者が「時間の本性はすでに明らかだ」と⾔うという可能性はある。だがここにおける理解は「リンゴとは何か」「⾚い果物である」というやりとりを越えるものではないことに注意が必要である。時空を記述する数式がいくら精緻になろうとも、「なぜその数式はうまく現象を記述しているのか」とか「現在とは何か」とか⾔った問いはいくらでも残りうるからである。

 ところで、ウィトゲンシュタインがこれらの哲学的問いを病とみなしたからには、かれにはこれらの問いがナンセンスであるという確信があったのだろう。それは⾔い換えれば、あらゆる哲学的困難は⾔語論的であるという確信である。ここではその確信を正当化することはしない。というのももしそれを試みれば古の哲学者たちと同じく「本性に関する問い」へと誘われてしまうだろうから。ここで⾒て取らねばならないことは、ウィトゲンシュタインの⾔語観がそうした哲学的困難への処⽅箋として確かに機能するということである。 

2−2.⾔語ゲーム 

 ウィトゲンシュタインの⾔語哲学を織りなす中⼼的な発想は、⾔語が世界を構造化しているというものである。換⾔すれば、対象や事実が存在するのではなく、その⾔語的表現が在るのだということだ。ここでウィトゲンシュタインが⾔語という概念をかなりひろく捉えていたということに注意されたい。ウィトゲンシュタインにとっては、⽇本語や英語といった⾔語体系のみが⾔語ではなく、⾝振りや⼿振り、さらにいえばわれわれの⾏動実践そのものが⾔語的なものである。 

 わたくしはまた、⾔語と⾔語が織り込まれた諸活動との総体をも⾔語ゲームと呼ぶだろう。*6

 さて、対象や事実に先んじて⾔語表現が在るというこの発想、これこそいわゆる⾔語論的転回という⾶躍であったわけだが、これは伝統的な⾔語観、すなわち対象や事実が存在し、⾔語はそれに与えられたラベルなのだという⾔語観へのアンチテーゼであった。まずはこの伝統的な⾔語観とその問題点を明らかにすることで、ウィトゲンシュタインの⾔語観の本質と有⽤性を浮き彫りにしていくことを試みる。

 伝統的な⾔語観のもっとも重⼤な問題はいうまでもなく「意味」にまつわる問題である。伝統的な⾔語観においては、語の意味とはそれが名指す対象だということになるわけだけれども、では「時間」は何を名指しているのだろうか。あるいは「意味」という語そのものはいったい何を名指しているのだろうか。「こんにちは」という語は。架空の⼈物の名は。この名指しの問題は抽象名詞の場合に限らない。というのも、われわれが現実において出会うものはすべて個体であって、たとえば〈猫⼀般〉のようなものは実在しないからだ。それゆえにこうした⾔語観を採⽤することは、必然的帰結として、イデア界のような⼀般的観念の楽園が存在することを前提せねばならない。もちろんそうしてならない道理は存在しないが、このプラトニズム的発想の根本的⽋陥は、それが何も説明しないよう思われることにある。懐疑的哲学者にとって実在論とは疑いうるがゆえに信ずるに⾜らないものなのである。

 ほかにも問題はある。ウィトゲンシュタインは直⽰定義の問題を挙げている。たとえば⼦供に「リンゴ」という語を教える場合について考えてみよう。教師があるリンゴを取り出して、「これがリンゴだ」と⾔う。それにたいし⼦供は「わかった」と答える。さて教師がべつのリンゴを取り出して「これは何か?」と問うたとしよう。すると⼦供は答えられない。というのもその⼦供にとってリンゴとは教⽰に使われた「あの」リンゴのことであって、リンゴ⼀般のことではなかったからだ。ここで教師がいくらリンゴの例を増やしてもこの問題は解決しないことに注意されたい。その⼦供が、教師が例⽰したリンゴのみをリンゴとして把握し、それ以外のリンゴに対しては依然としてそれが何であるか答えられないということは原理的にはありうるからだ。さらに極端な誤解も考えられる。その⼦供はたとえば、教師がリンゴを取り上げるその動作のことを「リンゴ」として解釈するかもしれない。さらには、リンゴの⾚さを「リンゴ」として理解するかもしれない。こうした誤解は、まさに論理的な観点のみから事態を捉えるならば、いくらでも考えつくことが出来る。いくら教師が⾔葉を尽くしたところで、⼦供が誤解する余地は残されているのである。このように個別の事態と⼀般性の間に横たわる間隙をいかに乗り越えるか、この点をプラトニストは説明せねばならない。 

 さてこうした例から浮かび上がってくるのは、同⼀性および差異の問題である。なにが同じもので、なにが違うものなのか。そもそもある個体を包む境界線はどこにあるのか。この世界が素粒⼦からできているのだとするならば、その点から⾒ればリンゴ A とリンゴ B はまったくの別物である。ミクロの物質的構成はまったく別であり、あるマクロなパースペクティブから⾒てはじめて同じ「リンゴ」というカテゴリに属するのにすぎない。またたとえば机の上にリンゴが置かれていたとして、リンゴと机の境界はいったいどこにあるのか。物理学は同種の素粒⼦が区別できないことを仮定している。とするならば、リンゴの内部の2つの素粒⼦の関係と、リンゴ中の素粒⼦と机中の素粒⼦の関係は本質的に区別できないことになる。ではいったいどこからどこまでがリンゴなのか。リンゴの〈魂〉つまり〈本質〉が及ぶ範囲だろうか?ここで物理学を持ち出したのは、そちらのほうが正しいと⾔いたいからではない。そうではなく、われわれの⾔語体系がしばしば⽭盾した帰結を⽣み出すことを⽰したいからである。どのような視点から展望するかによって、われわれの世界の境界線は、事態の輪郭は、容易に変動する。そしてこのような各々の視点の相対性こそが、哲学者に真理を、絶対的な知識を渇望させるのであり、ウィトゲンシュタインが病とみなしたのはまさに⼈間のこの傾向なのであった。

 対象には形⽽上学的本質が存在するという伝統的描像に対してウィトゲンシュタインが提⽰したのは、⾔語の慣⽤こそが事実の在り⽅を規定するという考えであった。リンゴが在るのではなく、「リンゴが在る」という⾔語表現があり、そう表現するための「基準」がある。もちろんその基準はきわめて複雑であり、またそれこそが⾔語表現を⽀えるものなのであるから、その基準を⾔語によって完全に記述することも不可能だろう。だがとにかくわれわれはそうした基準を持っており、それに応じて現実を切り分け、⾔語表現を与える。これがいわゆる「⾔語ゲーム」と呼ばれる思想である。 

いま、次のような⾔語の適⽤例を考えてみよ。わたくしが誰かを買物にやる。かれに「⾚いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙⽚を渡す。かれがその紙⽚を商⼈のところへもっていくと、商⼈は「リンゴ」という記号のついているひきだしをあけ、次いで⽬録の中から「⾚い」という語を探し出して、それに対応している⾊の標本を⾒出す。それから、かれは基数の系列――これをかれがそらんじていると仮定する――を「五」という語まで⼝に出し、それぞれの数を⼝にするたびに、標本の⾊をもったリンゴを⼀つずつ、ひきだしからとり出す。――このように、あるいはこれと似たしかたで、ひとは語を操作する。――「しかし、この商⼈は、どこでどのようにして〈⾚い〉という語を探し出し、〈五つ〉という語で何をやりはじめたらいいのかを、どうして知っているのだろうか。」――いや、わたくしは、わたくしの述べた通りにかれがふるまうと仮定しているのである。〔物事の〕解明はどこかで終る。――しかし、「五つ」という語の意味は何なのか。――そのようなことは、ここではまったく問題になっていなかった。どのように「五つ」という語が使われるか、ということだけが問題だったのである。*7

 ⾔語ゲームにおけるウィトゲンシュタインの意図は、語の意味という表現がまとっている神秘のベールを引き剥がし、⾔語を、⼈間がそのように「振る舞う」という、⼈間的⽣活的次元に引き下ろして考察することにあった。そして⽣活的次元において考える限り、「⾚さ」、「リンゴ」、「五つ」といったこれらの表現はただ表現なのであって、なにかそれに〈対応〉する〈意味〉があると⾔わねばならない理由は必ずしもないということが明らかになってくる。このことを⾒て取ることが、⾔語ゲームという発想の意図にほかならない。ここで、「⼈間の使⽤が語と対象の対応を作り出す」という描像に誘われないよう注意することが必要である。そのように考えるならば、語に先⽴って対象が実在するということになり、ではその対象である〈それ〉はいったいなんなのか、という本性にまつわる問いが再燃してしまう。そうではなく、語の使⽤が対象を世界から「切り出す」ということ、別⾔すれば分節化しているということ、これが⾔語ゲームのポイントである。 

2−3.⽂法 

 表現の基準、すなわち⾔語ゲームのルールは、「⽂法」と呼ばれる。ウィトゲンシュタインの主張するところによれば、われわれはこの⽂法に基づいて⾔語表現を⾏っている。⽂法はわれわれの⽣活形式(Lebensform)に合わせて調整されており、誤解を恐れずにいえば、これは⼀つの道具、われわれの⽣活を便利にするためのデバイスである。「ハサミの本質とは何か」と問われれば、⼈は「切ること」と答えるだろう。なぜならそれがハサミがつくられる⽬的だからだ。まったく同様のことが他のあらゆる観念に対しても⾔える。たとえば「時間の本質とは何か」という問いに対してウィトゲンシュタインは「待ち合わせすること」と答えるかもしれない。というのも、それが時間がつくられた⽬的だから。もちろん時間という語はそれ以外にもさまざまな適⽤、使⽤法をもっている。このことが事態を複雑にし、⾔語使⽤の実体を⾒づらくしているが、それはたんに複雑なだけで、なんら神秘的なものや絶対的なものを含んではいないというのがウィトゲンシュタインの考えであった。「哲学的に困惑している上の⼈は、或る語が使われる仕⽅の中にひとつの法則を⾒つけ、その法則をすべてに⼀貫して当てはめようとして、⽭盾する結果に終わる事例にぶつかるのだ」。この⼀貫した⼀つの法則こそが対象の〈本質・本性〉にほかならないわけだが、ウィトゲンシュタインはそんなものは存在しないと⾔っているわけである。⽤途のない道具など存在しないように。 

 本質が、すなわち語の使⽤に関する⼀貫した法則が存在しないことを、ウィトゲンシュタインは「家族的類似性」という⾔葉で表現している。 

たとえば、われわれが「ゲーム」と呼んでいる出来事を⼀度考察してみよ。盤ゲーム、カード・ゲーム、球技、競技、等々のことである。何がこれらすべてに共通なのか。――「何かがそれらに共通でなくてはならない、そうでなければ、それらを〈ゲーム〉とはいわない」などと⾔ってはならない――それらすべてに何か共通なものがあるかどうか、⾒よ。――なぜなら、それらを注視すれば、すべてに共通なものは⾒ないだろうが、それらの類似性、連関性を⾒、しかもそれらの全系列を⾒るだろうからである。すでに述べたように、考えるな、⾒よ!(中略)すると、この考察の結果は、いまや次のようになる。われわれは、互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網⽬を⾒、⼤まかな類似性やこまかな類似性を⾒ているのである、と。*8

わたくしは、このような類似性を「家族的類似性」ということばによる以外に、うまく特徴づけることができない。なぜなら、⼀つの家族の構成員の間に成り⽴っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の⾊、歩き⽅、気質、等々も、同じように重なり合い、交差し合っているからである。――だから、わたくしは、〈ゲーム〉が⼀つの家族を形成している、と⾔おう。*9

ここにウィトゲンシュタイン哲学の反本質主義とでもいうべき傾向を⾒て取ることが出来る。われわれの扱う⾔葉・概念に本質はない。あるいは、あるものがある概念の本質であるということは、あるものおよび本質という語の⽂法がそのように⾔わせているのだ、ということである。「本質は⽂法の中で述べられている」。

 さて、こうした描像の利点は⾔うまでもなく「本性に関わる問い」の問題を回避できることにある。 

ひとは、ある⼀つのものについては、それが⼀メートルであるとも、⼀メートルでないとも主張することができないのだが、それはパリにあるメートル原器である。――しかし、だからと⾔って、われわれはもちろんこれに何か奇妙な特性をつけ加えたのではなく、単にメートル尺を使って測定するというゲームの中でそれが果す独特な役割を特徴づけたにすぎない。――メートル原器の場合に似た仕⽅で、パリに保存されている⾊彩の標本といったものを考えてみよう。すると、われわれは、「セピア」とは、そこに密閉されて保存されている原セピアの⾊のことだ、と説明する。そのとき、この標本について、それがこの⾊であるとか、この⾊でないとか主張することは、いみをなさないであろう。*10

「この樹⽊の視覚像は合成されているのか。そうだとすると、どれがその構成要素なのか。」という哲学的な問いに対する正しい答えは、「それは、きみが〈合成されている〉ということで何を了解しているか、に依存する」ということである。(しかも、これはもちろん答えでなく、問題の拒否なのである。)*11

 ここにおける「メートル」や「要素」といった語は、ある⾔語ゲームの内側においてはじめて機能する。さきほど原⼦論的描像を例に上げたが、物理学の「この世界のもっとも単純な要素は素粒⼦である」という思想も、素粒⼦がこの世界の最⼩単位であるとみなすような⾔語ゲームの内側においてそのような表現が可能になっているのにすぎない。ゲームを離れた「本質的単純さ」なるものは存在しない。

 このようにゲームに依存しない客観的真理を求めることはナンセンスである、というのも概念はすべてゲームに相対的なものだから。これがウィトゲンシュタインの治療の内実である。これは、⾔語が世界についてはなにも語らないということを意味する。あらゆる「語り」が⾔語ゲームの中でしか機能しないということは、そのゲームが世界に⼀致しているということもまた、ゲームの中においてのみ意味を持つ、ということになるからだ。ここに論理哲学論考の思想との⼤きな相違点がある。

ニュートン⼒学によって世界が記述されうることは、世界について何ごとも語りはしない。他⽅、ニュートン⼒学によって世界が事実そうあるとおりに〔完全に〕記述されるということ、このことは世界について語るものとなっている。あるいはまた、さまざまな⼒学のうち、ある⼒学によって世界が最も単純に記述されるとすれば、そのことも世界について何ごとかを語るものとなろう。*12

 論理哲学論考においては、⾔語ゲームは論理を媒介にして、世界に触れうる可能性を持っていたのである。だが後期ウィトゲンシュタインはもはやそのような可能性を考慮しない。徹底的な意味論的禁欲。これが後期ウィトゲンシュタインの特徴であるといえるだろう。問題は、この意味論的禁欲が形⽽上学的誘惑に抗してどこまで持ちこたえられるかということである。 

2−4.⽂法の恣意性と必然性

 ウィトゲンシュタインによれば⽂法は恣意的である。すなわち、どのような⽂法を採⽤すべきかを決定するような必然的尺度は存在しない。もちろん、有⽤性という尺度が道具の在り⽅を規定するように、⽂法にも⾃然な⽂法とそうでない⽂法とが存在しうる。しかしそれはあくまで⼈間の⾔語実践における⾃然さであって、この世界の本性に関わるようなものではない。たとえば時間という概念の使⽤は、われわれが世界から「強制」されているわけではないのである。純粋に、すなわち使⽤法を離れて、客観的な概念など存在しない。メートル法が恣意的な表記法であるのと同じように、われわれの⽂法は恣意的である。というのも、もし⽂法の採⽤に必然性が伴うのであれば、それがすなわち「客観的真理」ということになってしまい、ウィトゲンシュタインの思惑は頓挫してしまうからだ。したがって形⽽上学という病の治療を⽬指すウィトゲンシュタインの⽴場からすれば、どのような⽂法も、すなわちそれによって構成されるどのような⾔語ゲームも、ただ⽣活形式における⾃然さに従うのみであって、あらゆる「必然性」から解放されている必要があった。だがわれわれはこのウィトゲンシュタインの思惑に真っ向から反するように思われる例を知っている。それは論理と数学である。 

 論理哲学論考はまさに論理的操作の真理性をもとに建てられた体系である。ここで本論の⽬的に⽤だつ範囲で論理哲学論考の内容を概観しておこう。というのも、後期ウィトゲンシュタインが治療を⽬指した哲学観の最たるものは前期すなわち論考の哲学であって、これらを対⽐することによってウィトゲンシュタインの意図をより明確化出来るものと思われるからである。 

 論理哲学論考において提⽰された世界観とは、ひとことで述べるならば、論理的操作のア・プリオリ性に基づいた世界観である。そこにおいては、諸命題は基底(=要素命題)に論理的操作を加えたものとして位置づけられた。論理はア・プリオリであり経験に依存しない。「論理は何かがこのようにあるといういかなる経験よりも前にある*13」のだ。⼀⽅、論理的操作の基底となる要素命題は経験に依存する。経験に応じて獲得された要素命題が、経験に依存しない論理的操作によって結合され、諸命題をつくりだす。これが論理哲学論考の⾔語観である。単純化して表現すれば、要素命題が意味を作り出す原⼦であり、それが論理法則に従って結合されることで複雑な⾔語表現が形成される、ということである。そして論理法則はこの世界のア・プリオリな秩序であるから、⾔語は事実を「写像」しうる。ゆえに、語られるることは明晰に語りうる、というわけである。さて、この要素命題という概念は先に述べた⽂法の概念とある程度類似性がある。どちらも恣意的であり、また経験的実在を作り出すものである。 

経験的実在は対象の総体によって限界づけられる。限界は再び要素命題の総体において⽰される。*14

われわれが⾒るのものはすべて、また別のようでもありえた。およそわれわれが記述しうるものはすべて、また別のようでもありえたのである。ものにはア・プリオリな秩序は存在しない。*15

このように論理哲学論考においても、経験的実在、対象というものは、それ⾃体としてあるものではなく、基底によって規定されるものとされた。この意味では要素命題と⽂法の役割は同⼀である。では違いはどこにあるのか。それは、要素命題のありようが論理によって限界付けられていたのにたいし、⽂法は論理をも⽣み出すものであったというところにある。「いかなる要素命題が存在するのかは、論理の適⽤によって決まる*16」。このことは要素命題に幾つかの性質を要請する。たとえば、要素命題の真偽はすべて独⽴であり、ある要素命題が真であるという事実が、他の要素命題の真偽に影響することはない。「要素命題の特徴は、いかなる要素命題もそれと両⽴不可能ではないことにある*17」。なぜなら、ア・プリオリな必然性がただ論理的なものに限られるということは、命題と命題の必然的関係はかならず論理的なものでなくてはならないということになり、したがって真理値的に依存関係にある命題のどちらかあるいは両⽅は「要素」命題ではありえないからだ。この性質はのちにウィトゲンシュタイン⾃⾝にたいし論理哲学論考の哲学観を捨てるきっかけを与えることとなる。ここで詳しく述べることはしないが、この要素命題の相互独⽴性は、たとえば次のような問題を⽣じる。「視野のある位置が⾚い」という事実は、「視野のその位置が⻘い」という事実を退けているように思われる。つまり視野のある⼀点が⾚いという命題と、その⼀点が⻘いという命題は相互独⽴ではない。ゆえにそれらは要素命題ではありえない。きわめて基本的な命題であると考えられる⾊に関する⾔明すら要素命題ではないならば、果たして要素命題とはいったいなんなのか。「およそ語りうることについては明晰に語りうる」、すなわち語りうる事実はすべて原始的記号に還元し解明できるということを主張していた論理哲学論考において、要素命題の具体的実態を分析できないということは重⼤な問題であった。 

 このようにア・プリオリな秩序としての論理という描像は⽋陥を抱えている。前にも述べた通り、直⽰的な定義の問題、すなわちまさに論理的観点のみを問題にするのであれば、われわれは「誤解」の可能性を完全に排除できない。また、後で詳しく論ずるが、規則のパラドックスの問題もある。要するに論理というものを厳密に考えれば考えるほど、現実との相違が⽬⽴ちはじめるのだ。このように論理の極限的適⽤がわれわれの⾔語活動をある種の緊張状態に叩き込んでしまう⼀⽅で、われわれは「⾃然に」⾔語を学び、使⽤する。こうした事実がある以上、われわれの⾔語を論理において基礎付けることは不可能である。このことを認識したウィトゲンシュタインは次のように宣⾔する。 

現実の⾔語を精密に考察すればするほど、この⾔語とわれわれの要請との間の衝突が劇しくなる。(論理の透明な純粋さといったものは、わたくしにとっては〔探究の結果〕⽣じてきたのではなく、⼀つの要請だったのである。)この衝突は耐えがたくなり、この要請はいまにも空虚なものになろうとしている。――われわれはなめらかな氷の上に迷いこんでいて、そこでは摩擦がなく、したがって諸条件があるいみでは理想的なのだけれども、しかし、われわれはまさにそのために先へ進むことができない。われわれは先へ進みたいのだ。だから摩擦が必要なのだ。ザラザラした⼤地に戻れ!*18

この「ザラザラした⼤地」こそが、⽣活形式であり、われわれの⽇常的な⾔語実践であった。 

 さて、論理から⽂法への移⾏が前期から中・後期への転換点だったわけだけれども、この⽂法という概念は、論理の持つ純粋な必然性の⽣み出す衝突を回避するために導⼊されたという経緯から、要素命題よりもいっそう恣意的なものでなくてはならなかった。そしてウィトゲンシュタインの考えによれば、論理や数学の必然性はただ、この恣意的な⽂法の内側でのみ語られうるものとなる。問題は、この⽂法のうちに現れる必然性が⼀体どのような意味で必然なのかということだ。たとえば掛け算の規則は恣意的であるということが出来る。負の数×負の数=負の数になるようなルールを作ることだって出来る。だがひとたびそのようにルールを定めたならば、掛け算の体系の全体はそのとき「⼀挙に」決定されるように思われるのではないだろうか。あるいはチェスのルール⾃体は恣意的であるけれども、ひとたびルールが定まれば、チェスにおいて起こりうる局⾯は「すでに決定されている」と⾔いたくならないだろうか。

 じつはここに、⾔語の「使⽤」という捉え⽅によって追放されたはずのイデア的意味の影が残されている。すなわち、恣意的な⽂法から⽣み出される必然性が「真に」必然的なものであるならば、事態はイデア的描像へと⽴ち戻ってしまうことになるのだ。もちろんイデア的世界を信じてならない理由は存在しないが(数学的プラトニストたちはまさにそうしている)、ウィトゲンシュタインはその道を選ばない。ウィトゲンシュタインが治療することを⽬指した哲学的困難はその道を進むことによっては癒やされえないからだ。したがって、ウィトゲンシュタイン哲学の真の達成を⾒て取るためには、かれが「必然性」という概念をいかに扱ったか、それを⾒て取らねばならない。そしてその最良の道はかれの数学観を理解することであると私には思われる。次章ではウィトゲンシュタインの数学の哲学を検討し、⽂法的な必然性がいわば「⽂化⼈類学的なもの」であることを明らかにする。 

3.ウィトゲンシュタインの数学観について

3−1.ウィトゲンシュタインと数学

 「⼈間には⾔語の限界へ向かって突進しようという衝動がある」とウィトゲンシュタインは述べている。「この世界に根本法則はあるのか、あるとしたらそれは何か」、「神はいるのか」、「普遍的価値とは何か」、「存在するとはどういうことか」、「私とは何か」、「そもそもなぜ何もないのではなく何かがあるのか」。こうした衝動はときに学問を発展させ、⼈類の物質操作能⼒の向上に寄与し、われわれの⽣活を豊かにしてきた。だがそうした問いの極限において、われわれはある不安を覚える。それは、われわれの知的活動が何ものにも⽀えられていないのではないかという不安である。「なぜ」という問いには際限がないように思われるし、そもそもわれわれの認識は主観的なものにすぎず、この世界を「正しく」認識できているとも限らない。それゆえ⼈は⾃体性を持つような何かを追い求め、認識の性質を分析し、そして、われわれはそれを直接観察することはできないがわれわれの認識が今のようにあるためには世界はこうなっていなくてはならないはずだと「超越論的」に考える。⼈類はさまざまな⽅⾯にこの「基礎付け衝動」を発揮してきたわけだけれども、ウィトゲンシュタインの哲学におけるキャリアはまさに「数学の基礎付け」においてはじまった。まず、この数学の基礎付け運動について簡単に説明しておこう。

 有史以来確実な学問の雛形とみなされてきた数学ではあったけれども、19世紀末から20世紀にかけて、数学にも基礎付けの波が押し寄せてきた。その端緒となったのは、かのフレーゲである。フレーゲはアリストテレスによってすでに完成されたとみなされていた伝統的論理学をさらに発展させ、より表現⼒の⾼い述語論理を完成させる。述語論理は量化の規則を備えており、「すべての」「ある」という量を扱う能⼒を持っていた。フレーゲはこの述語論理と、カントールによって創設された集合論の概念を⽤いて、数学のすべてを論理に還元することを試みる。この途⽅もないプロジェクトは、論理主義と呼ばれている。さて、論理法則はフレーゲにとって疑いのない確実なものだったのだが(それゆえに数学を論理に還元しようと⽬論んだのである)、そこにパラドックスが潜んでいることを指摘したのが、ウィトゲンシュタインの師、ラッセルである。いわゆる「ラッセルのパラドックス*19」として知られるパラドックスだ。その失意から、フレーゲは論理主義から撤退してしまうのだが、かれの志を引き継いだラッセルは、ホワイトヘッドとともにさらに論理主義を推し進め、その成果は⼤著「プリンキピア・マテマティカ」(以下たんにプリンキピアと呼ぶ)に結実することとなる。プリンキピアの体系には、既知のパラドックスを排除するための仕組みが設けられていた。「タイプ」という概念がそれである。ラッセルのパラドックスは⽇常の⾔葉で書けば「⾃分⾃⾝を要素として含まないような集合の集合は、⾃分⾃⾝を要素に持ち、かつ持たない」という真偽の決定不能性のパラドックスである。これはある種の⾃⼰⾔及が⽣み出すパラドックスであるから、これを排除するにはそうした⾃⼰⾔及が⽣じないような規則を設ければ良い。命題にタイプと呼ばれる階層を設け、⾃⼰⾔及を制限したのが、タイプ理論である。さてこのタイプ理論によりラッセルのパラドックスについては⼀応の解決が⾒られたわけだけれども、しかしプリンキピアの体系において未知のパラドックスが⽣じないという保証はなかった。⾒通しを悪くしているのは数学における無限の概念だった。われわれ⼈類には無限を⼀挙に⾒通すことはできない。だが論理学における基本的な規則である排中律は、この無限を前提にしている。命題「P または P の否定」がいかなる命題 P においても必ず真になるという主張は、P に代⼊されうる無限の命題に対する主張を暗に含んでいるからだ。この排中律を退ければ、先のラッセルのパラドックスも⽣じない。実際、数学者ブラウアーは直観主義と呼ばれる、排中律を規則としてもたない論理の体系を作り出した。だが、排中律が使えないということは背理法が使えないということを意味し、したがって、直観主義を採⽤することはきわめて⼤きな犠牲を伴う*20。これに対して、有限の⽴場から数学の無⽭盾性を証明しようとしたのが、当時数学界の頂点にいたヒルベルトである。かれは数学の公理化を推進した。すなわち、⾃明であると認められる幾つかの公理と推論規則によって、数学の全体を基礎づけようと試みたのである。もし数学の全体が公理によって基礎づけられるとすれば、数学者はただ規則の機械的変形を繰り返すことによって、あらゆる問題を証明することができることになる。これがヒルベルトの⽬論⾒であり、この数学の公理化運動は形式主義あるいは公理主義と呼ばれている。さてこの⽬論⾒を達成するためには、公理から出発してあらゆる数学の定理を証明でき、同時に⽭盾が⽣じないことを証明せねばならない。ヒルベルトは数学について語るためのメタ⾔語(メタ数学)を⽤いてこれを証明しようとした。有限に限られたメタ⾔語によって公理の完全性が証明されれば、もはや無限などおそるるに⾜らぬというわけである。メタ⾔語による公理体系の完全性証明というヒルベルトの⽬論⾒はヒルベルト・プログラムと呼ばれている。だが周知のようにヒルベルト・プログラムはゲーデルの不完全性定理によって頓挫する。算術を含むいかなる形式的体系においてもその真偽を決定不能な命題が存在すること、さらには、当の形式的体系の無⽭盾性⾃体がそうした決定不能の命題のひとつであることが⽰されたのだ。不完全性定理の中核をなすのは、やはりある種の⾃⼰⾔及であった。

 ウィトゲンシュタインが論理と数学、そして哲学の世界へと⾜を踏み⼊れたのは、フレーゲ、ラッセルらによる論理主義が全盛の時代であった。フレーゲのすすめに従いラッセルに師事したウィトゲンシュタインは、論理学と哲学の研究に明け暮れる。かれは数学だけでなく、⾔語の全体を論理によって基礎付けようと試みた。その成果が『論考』である*21

 『論考』においてすべての哲学的問題の解決を宣⾔し、⼀度は哲学を離れたウィトゲンシュタインだが、かれの哲学への復帰を決定づけた出来事もやはり数学に関連している。それは、ブラウアーによる直観主義数学の解説公演であった。

 さて、ウィトゲンシュタインの哲学への復帰は、数学の哲学における混迷に⼀⽯を投じるものとして期待された。⼈々は、『論考』の著者ウィトゲンシュタインが、論理主義・直観主義・形式主義に変わる新たな⽴場を提⽰することを期待したのである。ところが哲学復帰後のウィトゲンシュタインは、そうした周囲の期待とは正反対の道に進む。かれにとって数学はもはや確実な知でも、なんらかの基礎付けが可能なものでもなかった。数学は⾔語のあるきわめて特徴的な⼀側⾯であり、哲学的問題の源泉として典型的なものだったのである。 

3−2.数学的実在論 

 われわれはほんとうの三⾓形を⾒たことがない。それは⼤きさのない点、太さのない直線によって閉じられた領域であって、この物理的世界にある限り、そのようなものを描画することは不可能である。ペンで書かれた線には太さがあるし、素粒⼦論的世界観を前提するならば、連続性を物質的に構成することすら不可能である。いくら滑らかに⾒える線であっても、⼗分に拡⼤してみれば、それが粒⼦によって構成された近似的に直線に⾒える直線ではないものであることが明らかになる。そもそも相対性理論の述べるところに従えば、この宇宙はユークリッド空間ではない。ゆえに、現実的には、真の三⾓形を構成することはわれわれにはできそうもない。だが⼀⽅でわれわれは三⾓形の⼀般的諸性質について論じることが出来る。三⾓形の内⾓の和が180度であることや、直⾓三⾓形においてピタゴラスの定理が成り⽴つことを、われわれは証明してみせることが出来る。このように考えてゆくと、われわれが三⾓形であるとみなす物理的図形と、数学者が考察する真の三⾓形の観念との間には、⼤きな間隙が潜んでいるように思われる。この間隙を埋めるのでなしに⾶び越えてしまうのが、数学的実在論とか、数学的プラトニズムと呼ばれる⽴場である。この数学的実在論という⽴場は、数学的対象がわれわれの⼼と独⽴に、いわばイデア的に存在することを仮定する。そしてわれわれが現実に⾒出す三⾓形や数は、そうしたイデア界に含まれる数学的実在の影なのだと考える。数学的対象や数学的定理は、われわれがそれを取り扱う以前から、観念の世界において客観的に、無時間的に存在しており、数学者はそれを「発⾒」するのだ。数学は客観的事実であり、数学者は計算によってそれを認知し記述する。これが数学的実在論という考え⽅である。さて、先に述べた論理主義や形式主義といった⽴場は、この数学的実在論の⼀種とみなすことができよう。論理主義は論理の客観的確実性に数学を還元する試みであったし、形式主義はまずわれわれの数学的営みが正しいということを前提した上で、それを完全に表現しうる公理群を発⾒しようというプロジェクトであった。いずれにせよ論理的構造や数学的構造の客観的実在を想定しているのである。その意味では前期ウィトゲンシュタインも数学的実在論者であった。だが後期ウィトゲンシュタインの哲学は反実在論的である。かれはもはや数学的実在など認めない。数学もまた、ひとつの⾔語ゲームにすぎないとかれは考える。そうした思想的転換の背景にあったのは、「規則のパラドックス」と呼ばれる問題である。

3−3.規則のパラドックス

 ウィトゲンシュタインの中期哲学と後期哲学の最⼤の相違点はおそらく、規則という概念の取扱い⽅にある。論理哲学論考の破綻によって、ア・プリオリな秩序としての論理という描像は放棄したウィトゲンシュタインであるけれども、中期の時点ではまだ⾔語の使⽤規則の体系にある種のイデア的なものを⾒出していたように思われる。先にも述べたが、チェスの規則が恣意的であったとしても、その規則が定まった時点でチェスにおいて起こりうるあらゆる局⾯は決定されている、という考えである。実際、これはわれわれの⾃然な感覚によく合致した考えだ。われわれは、いまだ誰も計算したことのない数式であろうと、その答えは「あらかじめ」決まっていると信じている。そしてその直観は、われわれの⽇常⽣活においてはまったく正しい。しかし、こうした規則の把握を可能にしているものは結局のところ何なのか。われわれは規則を「認知」することが出来るのだろうか。認知される規則はいったいどこにあるのか。これらの問いに素朴に答えようとするならば、すぐさまわれわれは数学的実在論へと引き戻される。われわれの⾔語がたんなる規約、⽂法の集まりに過ぎないとしても、そうした規約から新たな規約が⽣み出される過程は、真の意味で「必然的」であると考えたくなってしまうのである。そして客観的無時間的な規則がどこか別の世界で展開されていると考えたくなってしまうのである。われわれのこうした思考傾向を、ウィトゲンシュタインはしばしば機械のアナロジーをもちいて説明している。

活動の仕⽅のシンボルとしての器械。器械は――とまず最初に⾔っておいてよいであろうが――その活動のしかたをすでにみずからのうちに備えているように⾒える。これはどういうことだろうか。――われわれが器械を認知する際、それ以外のすべて、すなわち器械の⾏うであろう諸々の運動が、すでに完全に決定されているように⾒える。*22

後期ウィトゲンシュタインはこの器械としての規則という描像を批判する。規則は、作られた時点でその活動のすべてをすでに含んでいるような器械ではまったくない。規則の帰結は、その規則が適⽤される段階ではじめて約定されるのである。⾔い換えれば、規則がある帰結やべつの規則を導くとき、導かれる帰結や規則は必然的なものではなく、その都度約定される「新たな」規則なのだ。これはかなり過激な主張である。というのも、この考えを受け⼊れるならば、すなわち規則が帰結やべつの帰結を⽣み出す過程が必然的なものでないとするならば、数学的命題はすべてそれ⾃体が独⽴の規則であるということになるからである。たとえば⾜し算の規則から導かれた「1+1=2」という命題もまた、ある意味で恣意的な独⽴の規則なのだ。このにわかに受け⼊れがたい事態についてウィトゲンシュタインは次のように述べている。

 数学的命題は⼀つの道を決定するのであり、われわれのために⼀つの道を固定するのである。 

 数学的命題が規則であることと、たんに制定されるばかりでなく、規則に従って⽣み出されるということとは、何ら⽭盾ではない。*23

この主張を理解する最短の道は、規則のパラドックスが⾔わんとすることを理解することであるとわたしには思われる。規則のパラドックスとは、次に⽰すように、「規則に従う」ことにまつわるパラドックスである。 

われわれのパラドックスは、ある規則がいかなる⾏動の仕⽅も決定できないであろうということ、なぜなら、どのような⾏動のしかたもその規則と⼀致させることができるから、というものであった。*24

 このパラドックスの内容を説明するために、⼀つの例をとって考えてみよう。「2,4,6,8,□、12…という数列において□に⼊る数は何か」という問題が与えられたとする。⼀般的な感覚からすれば、正解は10である。この数列は a_n =2*n という規則からつくられており、その第5項なのだから 2×5=10 というわけだ。だが多少の数学的知識と哲学的精神を持ってこの数列を眺めるならば、この数列の⽣成規則として妥当する規則は a_n = 2*n 以外にも無数に存在することが分かる。たとえばこの数列を、

(後で埋める)

の⼀部と解釈すれば □=-14 である。さらに、

(後で埋める)

と定義すれば、任意の X を答えにできる。数列をさらに増やしても無駄である。われわれが書き出せる数列の項はたかだか有限であり、そうした有限の数列に妥当する⽣成規則は無数にありうる。したがって、もし仮にこの問題の出題者が□に妥当する唯⼀の解を回答者にせまるとするなば、答えは結局「そのようなただ⼀つの解は存在しない」ということになるだろう。ではこれにさらに条件をつけ加えて、10のみを正解とすることは出来るだろうか。たとえば、「数列を満たすもののうちもっとも単純なもの」という条件を加えたらどうだろう。やはり問題が発⽣する。というのも、「数列の単純さ」を測る規則の把握において、また誤解の余地がありうるからだ。ゆえにわれわれはただ規則という観点のみからでは、数列を決定することはできない。この問題を規則把握のパラドックスと名付けることができよう。われわれは、まさに客観的な観点から規則を捉える限り、規則を把握することができないのである。

 逆に、与えられたある規則から、数列を⽣成するさいにもパラドックスが⽣じうる。こちらは、規則使⽤のパラドックスと呼びたい。ウィトゲンシュタインは次のような例を挙げている。教師(われわれ)が、すでに⾃然数列を書き出すことに習熟している⽣徒に、もう⼀つ別の数列を書き出すことを教え、たとえば「+n」という形の命令に対しては、 

0,n,2n,3n, …… 

という形の数列を書き出すようにさせる。ここで「+1」という命令を与えれば⾃然数列が、「+2」という命令を与えれば偶数列が得られるであろう。さて、われわれが練習し、1000までの数字においては⽣徒と教師の理解が⼀致したとしよう。

 いま、⽣徒に1000以上のある数列(たとえば「+2」)を書き続けさせる、――すると、かれは1000, 1004, 1008, 1012と書く。

 われわれはかれに⾔う、「よく⾒てごらん、何をやっているんだ!」と。――かれにはわれわれが理解できない。われわれは⾔う、「つまり、きみは2を⾜していかなきゃいけなかったんだ。よく⾒てごらん、どこからこの数列をはじめたのか!」――かれは答える、「ええ!でもこれでいいんじゃないのですか。ぼくはこうしろと⾔われたように思ったんです。」*25

 まったく奇妙なことに思われるかもしれない。われわれから⾒れば、⽣徒はきわめておかしなことをやっているように⾒える。だが、教師と⽣徒のどちらかが正しく、どちらかが間違って規則を把握している、と⾔うことは、論理的にはできない。これは「同じように」するという語の適⽤に結びついている。 

 誰かが 2x+1 なる数列を書き出しながら、数列 1,3,5,7,…… とたどっていく、と仮定せよ。かれは⾃問する、「わたくしはずっと同じことをしているのか、それともそのつど何か違ったことをしているのか」と。 

 ある1⽇から翌⽇にかけて「あしたきみを訪問する」と約束するひとは――毎⽇同じことを⾔っているのか、それとも毎⽇何かほかのことを⾔っているのか。*26

 われわれがここで⾒て取らねばならないことは、なにを「同じである」とみなすかは、ア・プリオリに定まっているわけではない、ということである。したがって、⽣徒が「+2」という命令を、「1000までは常に2を、2000までは4を、3000までは6を、というふうに加えていけ」という命令をわれわれが理解するように理解している、ということもありうるのである。

 次のような反論がありうるかもしれない。たしかに、教えられていない場⾯については、⽣徒の理解は教師の意図と異なっているかもしれない。だが数学は再帰的な構造を持っている。たとえば⼗進法、⼀桁の⾜し算の規則、九九の規則、繰り上がりの規則など、四則演算に必要な最⼩限の規則をすべて表に書き出し、それを逐⼀参照しながら計算するように教えれば、四則演算の規則の「すべてを」教えたことになるのではないか。すなわち、教えられていない場⾯などもはや存在しないのではないか。ゆえにだれもまだ25×25を計算したことがなくとも、それらの表に従う限り、答えは625であると決定できるのではないか、ということである。だがそうではない。九九の規則がすべて書き出されていたとしても、それはただ、九九という場⾯においてのみ決定されているのにすぎない。われわれが九九を新しい計算(たとえば25×25)において使⽤するとき、それが九九が単独で⽤いられる場合と同じように使⽤されているかどうかを決定する純粋に客観的な基準は存在しないのである。

 さて、先の器械のアナロジーが成⽴しないことはもはや明らかであろう。⾔い換えれば、規則とそこから派⽣する必然性が客観的に実在し、それをわれわれが認知するという描像は無意味なのである。なぜなら、われわれはあらゆる規則を有限個の例において習ってきたのであり、そして規則把握のパラドックスの⾔わんとすることを認めるならば(わたしには認めざるをえないように思わえる)、その習得には本質的な⾮決定性が伏在していることになる。無数の規則の中からもっともそれらしいものを直観によって選んでいるのだと⾔っても無駄である。「もっともそれらしいもの」が決定できるのであれば、そもそもこのようなパラドックスは考えることすらできなかったはずだからだ。したがって例の「器械としての規則」なるものが仮に存在したとしても、それはわれわれの営みをなんら説明しない。それどころか、有限の例から⼀般性への⾶躍という、実在論の典型的問題がさらに増えてすらいるのである。

3−4.規則に従うということ

 規則が「その適⽤の全体をうちに含んだ器械」ではないとすれば、規則とはいったいなんなのか。この問いに対するウィトゲンシュタインの回答は、「〈規則に従う〉ということは⼀つの実践である(探究202)」というものである。そして、このわれわれの実践を⽀えているのが⽣活形式であり、われわれにとっての「⾃然さ」、あるいは、われわれの「思考の癖」である。この⾃然さに従って、なおかつ⾃然さに従っているという事実を忘れて、ある⾔明を正しいものとして「選択」すること、これこそが「規則に従う」ということにほかならない。規則それ⾃体にその適⽤の全体が含まれていないのだとすれば、規則の決定権はそれを適⽤する⼈間が持っていると考えるほかないからである。 

 われわれは普段、規則がわれわれの「⾃然さ」の産物であるという事実を意識しない。だが、現実ではありえない状況について考察するならば、この⾃然さの影響は多少浮き彫りになる。次のような例を考えてみよう。紙⾯を⽩と⿊に塗り分け、その上にコインを置く。さて、このコインは⽩い領域の上にあるか、⿊い領域の上にあるか、あるいは⽩と⿊の両⽅の領域にまたがっているかの三通りが考えられる。ここでコインを「無限に」⼩さくしてゆくことを考えてみよう。さてこの無限⼩のコインと紙⾯の関係はどのようになるだろうか。注意しておかねばならないのは、そのような状況など現実には起こり得ないということである。無限に⼩さなコインなど現実には存在しない。だが、われわれは「もし仮に」コインが⼤きさを持たないのであれば、コインは⽩い領域の上にあるか、⿊い領域の上にあるか、あるいは⽩と⿊の境界の上にある、と「⾔いたくなる」(すくなくともわたしはそう⾔いたくなる)。この「もし仮に」は決して起こり得ないのに、われわれはそう⾔いたくなるのだ。このように、現実ではありえないある種の理想的で純化された状況について「あえて」なにか述べようとするとき、われわれから⾒て⾃然な⾔明とそうでない⾔明とが存在することが明らかになる。三⾓形や無限、⽭盾といった(現実的には構成不可能な)数学的観念の正体は、そうした対象が「もし仮に」存在するならばとわれわれが思惟するさいに現れる「⾃然さ」にもとづいた規則の実践だったのである。 

3−5.数学者は定理を発明する

 規則に従って新たな命題や規則を産出する過程が、⼈間的な「決断」を含んでいるということ、それが「数学的命題が規則であることと、たんに制定されるばかりでなく、規則に従って⽣み出されるということとは、何ら⽭盾ではない」というウィトゲンシュタインの主張の内実であった。そしていまやこの主張の正当性は認めねばならないように思われる。しかしそれでもなおいくつかの疑念は残る。その疑念の最たるものは、「数学が予⾔をする」と⾔いたくなるような状況において現れる。誰もいない部屋に5⼈の少年が⼊っていき、続いて7⼈の少⼥が⼊っていったとしよう。それ以降、部屋に⼊る者も出る者もいなかったとする。さてこのときわれわれは、改めて部屋の中の⼈数を数え直すということをせずとも、「5+7=12」という簡単な計算によって、部屋の中の⼦供の⼈数を知ることが出来る。このことはやはり、客観的な意味において正しい計算規則なるものが存在することを意味しているのではないか、というわけである。ウィトゲンシュタインは講義において「スミスが正七⾓形を作図したというのは確実に偽である」という命題を検討している。正七⾓形の作図の不可能性は、数学的に証明することが出来る。この証明は、直接的な観察を抜きにして、スミスが正七⾓形を作図していないことをわれわれに知らせるように思われるのである。この疑念に対して、ウィトゲンシュタインは単純明快な回答を与えている。

その計算体系は予測をしないが、その体系を⽤いて諸君は予測をすることができるのである。*27

 ある計算を⾏うことと、その計算を現実の問題の解決に⽤いることとは、まったくべつの事態である。前者は数学的⾏為だが、後者はそうではない。四則演算は数学だが、部屋の中の⼦供の⼈数を四則演算によって求めることが出来るということを⾒て取るのは、数学ではなく⼈間の能⼒なのである。ゆえに、計算がつねに現実に⼀致するからといって、その確実性が数学のうちにあると⾔わねばならない理由はない。むしろ現実に問題を⾒出し、そこに計算という技術を適⽤することを可能にしている⼈間の本性こそが予⾔をしていると考えるほうが⾃然である。また先に「計算がつねに現実に⼀致する」という表現をしたけれども、現実に即して考えれば、これは事実ではない。実は部屋に通じる隠し通路があって⼦供の⼈数は12⼈ではないかもしれないし、また真の正七⾓形を現実に描画することなど不可能なのであるから、現実の作図された正五⾓形(こちらは作図可能である)が真の正五⾓形に近しいのと同じ程度の精度で、スミスが正七⾓形を作図するということはありうる(もちろんそれは「正当な」作図法ではないだろうが)。すなわち、われわれの計算や証明が与えるのは、現実についての確実な情報ではなく、われわれが「⼦供は12⼈いなければならない」とか「その作図には間違いがなければならない」とか⾔うための⼗分な根拠なのである。ここで部屋をより完全な密室にしてみたり、作図に⽤いる器具の精度を向上させたりしてみても無意味である。それはただ現実を数学に近づけているのに過ぎない。数学的規則が完全に成り⽴つような世界を創造した上で、その中で数学的規則が世界に⼀致することを⽰したところで、それは⼋百⻑試合のようなものである*28。さて、以上のように考えることは、数学が基盤を持たないあやふやな営みであるということを意味しない。むしろその逆なのであって、数学という営みが⾼度に体系⽴っていること、多くの数学者によって共有されていること、そしてそれが実際に有⽤であることそれ⾃体が、数学の正当性を保証しているのである。いわば数学とは技術であり道具であって、ハサミの使⽤に超越論的基礎付けが必要ではないのと同じように、数学は基礎付けを必要としないのである。そして数学者は定理を(発⾒するのではなく)「発明」するのだ。

⼈は数学的発⾒について語る。私は、数学的発⾒と呼ばれているものは数学的発明と呼ぶ⽅が遥かによいということを繰り返し⽰そうとするだろう。*29

 もちろん、数学的概念のすべてがハサミのように明確で実⽤的な⽬的のもとにつくられたものだと⾔うことには無理がある。特に純粋数学における成果はその傾向が強い。ただし、砥⽯がそれ⾃体では役⽴たずともハサミを研ぐことが出来るように、ある数学的概念はべつの数学的概念を証明したり、新しい発想の源となったり、体系の⾒通しを良くしたるする。またハサミがときに切る以外の⽬的に転⽤されるように、ある数学的概念にまったく別の⽅向から光が当てられ、新たなる道が⽰されたりもする。そうして巨⼤に膨れ上がった⼀つの⾔語ゲームが数学なのである。それはもはや道具というよりはむしろ⼯芸品の様相を呈している。そしてときどきそうした⼯芸品に現実的な応⽤が⾒出されたりもするのだ。 

3−6.数学のつじつま 

 われわれが数学的体系を客観的で確実なものと考えたくなるもう⼀つの⼤きな理由として、数学的演繹の結果がつねに数学の他の部分と整合しているという事実がある。たとえばフェルマーの最終定理*30が証明されたことと、実際に条件を満たす⾃然数の組が発⾒されていないという事実の関係は、数学においてなんらかの超越的整合性が存在することをわれわれに予感させる。だがウィトゲンシュタインに⾔わせれば、この無⽭盾性は数学体系の性質なのではなく、われわれが数学というゲームを営むにあたって⾃らに課した⼀種の「要請」だったのである。数学は無⽭盾なのではない。⽭盾しないように増改築され続けているのだ。そして⽭盾が⾒つかれば「どこかに間違いがあるに違いない」と⾔って数学者は体系を修正するだろう。全体として⽭盾のない体系を作り出し維持しているのは、数学体系の持つ神秘的な⼒ではなく、われわれ⼈間の性質である。数学はある意味では、⾷べたり歩いたりするのと同じくらい、⼈間にとって⾃然な⾏為なのだ。

 ウィトゲンシュタインの数学観の射程を⽰すためにも、かれの思想を敷衍して、先の形式主義の問題を考えてみよう。先にも述べたが、形式主義は数学を公理化し、数学的問題の解決を記号と式変形の繰り返しに帰着させようという試みである。ところで数学者は⾃然に背理法を使って問題を解いてきたのであるから、形式体系の規則の中にもそれに対応するものが必要であり、したがって排中律がこれに含まれることになる。さて排中律を前提すると、「⽭盾からは任意の命題を導いて良い」ことが帰結する。演繹の過程で⽭盾が発⽣した場合、そこからどんな命題であれ導出できるということだ。形式主義において無⽭盾性が重視されたのはこのためである。公理から⽭盾が導かれた場合、その体系においては任意の定理を証明できることになってしまい、そのような体系に意味はない。

 この問題についてのウィトゲンシュタインの回答は、きわめてシンプルである。「ならば、⽭盾からはいかなる結論も引き出さなければよい」。だがここでウィトゲンシュタインが意図しているのは、直観主義者がそうしたように排中律を排除することでもなかった。数学的問題の解決を証明論に帰着させ、すべてを記号操作に還元することは、いわば数学を⼈間から遊離した、それだけで完結した器械*31とみなすことにほかならない。だが規則がそのような器械でないことはいまや明らかである。数学を形式的体系と記号に⼀任することなく、つねに⼈間の⽬で監視し、決断し続けること。その限りにおいて、数学に根源的問題は発⽣し得ない。なぜなら、われわれは数学をそのようなものとして実践し続けているのだから。もちろん、こうしたウィトゲンシュタインの考えが真に正しいことを保証するものも存在しない。だが、数学が今なお本質的に破綻することなく数学者によって営まれていること、また数学の結果が現代社会において役⽴っていること⾃体が、ウィトゲンシュタインの洞察の正しさを(語るのではなく)⽰し続けているように思われる。 

4.まとめ 

 数年前のことである。わたしは「ある現象を完全に理解するとはどういうことだろうか」と考えていた。たとえば、あるバクテリアの物質的構成を原⼦レベルで解き明かし、コンピュータシミュレーション上でその⽣命活動を再現できるまでになったとする。そのとき、そのバクテリアを完全に理解したといえるだろうか。いや、そうではない。たとえバクテリアの物質的構成が明らかになったにせよ、そのバクテリアがどのような⾷物を好むかとか、どうすればそのバクテリアを効率的に駆除できるかとか、そうした問いはまだ残されているかもしれない。このときにわたしが悟ったのは、理解とは静的なものではなく動的なものであり、そこには⽬的や、⾏為の可能性といったものがつねに伏在しているのだということであった。われわれは駆除するために、そこで⾒出された知⾒を医療に応⽤するために、あるいは誰かに話して聞かせるために、バクテリアを理解するのである。むしろ、そういう⽬的が定まってはじめて、なにかを理解するということが可能になるのだ。したがって「完全な理解」などそもそもありはしない。そして同時に、次のようなことをも考えた。たとえばコンピュータ上でバクテリアがシミュレートできたとして、そのシミュレーションがもとのバクテリアを模したものであるとする「根拠」はいったいなんであろうか。コンピュータにとってそのシミュレーションはたんなる数値計算に過ぎず、その実体は電気的に表現された2進数である。それをバクテリアのシミュレーションであると⾒なすのは単に⼈間であるわたしであって、たとえば⽝などから⾒ればそれらはまったく別のものであるかもしれない。この「⾒なす」という⾔葉がどうにも脳裏に引っかかった。というのも、シミュレーションの内容をわたしがバクテリアとして「⾒なし」ているのだとすれば、当の現実のバクテリアについても、たんにわたしがそれをバクテリアであると(ある基準をもって)「⾒なし」ているのにすぎないと⾔ってかまわないように思われたからだ。このことと「完全な理解」があり得ないこととの間には、なにか関連があるのではないかと思われた。 

 今にして振り返ると、当時のわたしの拙い思索は、⾔語ゲームという発想にかなりのところ接近していた。われわれはわれわれの⽣活にあわせて調整された⽂法を通して、現実を表現し、その表現をもとにして⾏為する。それを把握することによって完全な理解が可能になるようななにか、すなわち現象の「本質」なるものは存在しない。ウィトゲンシュタインは次のように述べている。「「本質的」とはけっして対象の属性ではなく、観念の特徴なのである(7巻60P)」。そして観念とは、われわれが⽣きてゆくのに⼗分な精度で現実を構造化し、統⼀的に⾏為することを可能にするための、⼀種の基準なのだ。 

 ウィトゲンシュタインの反本質主義と⾼度な懐疑的精神は、バクテリアやリンゴといった知覚可能な対象を超えて、論理や数学といった規則の次元にまで及んだ。前章で⾒たとおり、もはや純粋で客観的で無時間的な規則など存在しない。いかなる規則もそれがある意味で⼈間的なものであるということは、いまや明⽩であるとわたしには思われる。したがって、⾔語と数式によって記述されるあらゆる科学的営みもまた、やはり⼈間的なものであるに過ぎず、純粋に客観的な宇宙の理解に⾄るものではないということになるだろう。それはただ、⽣活形式における「宇宙の使いみち」をわれわれに教えるのみである。真理はわれわれの外にあるのではなく、われわれの⾔語活動のうちに存在するのだ。このことこそが、「本質は⽂法の中で述べられている」という主張の意味にほかならないと、わたしには思われる。 ところで、われわれは普段、現実の対象や事実、規則が、ただ⽂法的なものであるということを意識しない。フランスの哲学者ブーヴレスはこのことを⾒事に表現している。「わたしたちが「事実」と呼んでいるものを⾒るようにわたしたちに教えたのが、まさに⽂法なのだから。しかし、その「事実」を⽂法に依存しないものとして、⽂法をまたずに存在するものとして⾒るように教えたのも⽂法である。*32

 ウィトゲンシュタインの反本質主義はたんなる不可知論では決してない。なぜなら「知る」という事態を⽀えるのもまたわれわれの⽂法なのだから。われわれはわれわれの⽂法の教えるところにしたがって、世界について知ることが出来るし、その知識をもちいて⾏為することができる。それはわれわれの⽣活をただ眺めてみれば明らかだ。われわれは時間の⽂法に従って待ち合わせし、⾚さやリンゴの⽂法に従って買物をする。数学はいまも発展を続け、物理学はその予⾔能⼒を向上させている。ウィトゲンシュタインがたしなめているのは、そうした実践を超えて何かを知ろうという欲求であり、⽂法を外れた⾔語使⽤なのである。 

5.おわりに 

 以上、ウィトゲンシュタインの⾔語及び数学の哲学を概観してきたわけだけれども、もちろんこれでかれの哲学が⼗分に明らかにされたと⾔うつもりはない。かれは実にさまざまなテーマについて考察しているし、それぞれが深い洞察を含んでおり、それらをこの程度の⼩論によって語り尽くすことなど不可能である。ただし、かれの哲学に通底する基本的なアイディアは、多少明瞭になったのではないかと思われる。すなわち、⾔語をわれわれの⽣活に引き寄せて考察する限り、⼈間を超えた普遍的〈本質〉などなんの説明の役にも⽴たないこと、むしろわれわれの「⽂法」が⾔語と⾔語が織り込まれた諸活動、すなわち⾔語ゲームを規定していること、そしてあらゆる語はこの⾔語ゲームの上ではじめて意味をもつということである。そしてゲームという観点を意識する限り、われわれを悩ませてきた哲学的困難、⾔語の限界へと突進する衝動は解消される。これがウィトゲンシュタインの狙いであった。

 ところで、反本質主義的態度を徹底するためには、規則の問題以外にもう⼀つ避けては通れないものがある。それはわれわれの「⼼」に関する諸問題である。われわれの現実がわれわれの⽂法によって構造化されたものであるにせよ、当のわれわれ⾃⾝、すなわち「主体」は、形⽽上学的存在者なのではないかと⾔いたくなるのだ。ウィトゲンシュタインの考えでは、それもまた⾔語表現の問題にすぎないわけだが(私的⾔語批判)、本論⽂でそれについて論ずることはかなわなかった。ほかにも論じきれなかったこと、正確に表現できなかったことなど、⼼残りは多い。この場を借りて⼀つつけ加えておくとするならば、ウィトゲンシュタイン哲学を論ずるにあたって、「⾔語も⼀つの事実である*33」というポイントはおさえておかねばならないように思われる。記号について考えるさい、われわれはそのシンボルとしての機能にのみ注⽬しがちだけれども、注意して観察するならば、記号はつねに⾳声や紙⾯上のインク、模型といった現実の事態として(知覚可能なものとして)存在していることが明らかになる。その意味では、⾔語はきわめて複雑に構造化されていはいるけれども、本質的には、⽬の前のリンゴが⾷欲をそそるのとまったく同じ仕⽅で、⼈間にたいし特定の応答をせまる⼀つの刺激と捉えることができるのだ。そう考えてみると、⽣活形式が⾔語や規則を規定するという考えはそれほど不思議ではない。たとえば数学とは、眼で数式を読み、⼿に持ったペンでそれに式変形を加えるといった、ひとつの物理的過程と考えてもよいのである。ここにおいて客観的で無時間的な〈規則〉の出て来る余地はない。ある意味では、投げたボールが⾃然法則に従って跳ねてゆくのと同じ意味でわれわれは数学をするのである。もちろんわれわれの跳ね⽅は想像を絶して複雑であるけれども。 

 さて、思い返してみればわたし⾃⾝も哲学的病いにおかされたひとりの患者であった。わたしがわたしであることに不思議を感じ、数理論理学にこの世界のア・プリオリな秩序を幻視し、なんらかの絶対的真理がわれわれの外にあると信じていた。だがいまでは治療もだいぶ進み、それらの問いがただ⼈間的なものにすぎないこと、ナンセンスな⾔語表現にすぎないことを実感するに⾄っている。そのことを残念に思う気持ちがないわけではないけれども、そうした病いにおかされたままではまともに⽣きてゆくことはままならないわけで、その意味ではわたしはウィトゲンシュタインと、かれの思想に触れることができた幸運に感謝している。そして本論⽂がウィトゲンシュタイン的治療の道具として機能しうるものであることを願うものである。

 

[参考⽂献] 

Jacques Bouveresse, La Force de la règle : Wittgenstein et l'invention de la nécessité, Éditions de Minuit, 1987:中川⼤・村上友⼀訳『規則の⼒:ウィトゲンシュタインと必然性の発明』、法政⼤学出版局、2014年。 

Wittgenstein, L., Tractatus losico-philosophicus, Routledge & Kegan Paul Ltd., London, 1971.:『論理哲学論考』(奥雅博訳、『ウィトゲンシュタイン全集』第⼀巻、⼤修館書店)([T]と略記) 

Wittgenstein, L., The Blue and Brown Books, B. Blackwell, Oxford, 1958.:『⻘⾊本・茶⾊本』(⼤森荘蔵訳、『ウィトゲンシュタイン全集』第六巻、⼤修館書店)([BlB&BrB]と略記) 

Wittgenstein, L., Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik, Revidierte underw. Ausg, Sunhrkamp Verlag, Frankfurt, 1974.:『数学の基礎』(中村秀吉・藤⽥晋吾訳、ウィトゲンシュタイン全集』第七巻、⼤修館書店)([BGM]と略記)

Wittgenstein, L., Philosophische Untersuchungen, B. Blackwell, Oxford, 1953.:『哲学探究』(藤本隆志訳、『ウィトゲンシュタイン全集』第⼋巻、⼤修館書店)([PU]と略記)

WIttgenstein, L., Wittgensteinʼs Lectures on Foundations of Mathematics, Cambridge, 1939, From the notes of R. G. Bosanquet, Norman Malcolm, Rush Rhees, and Yorick Smythies, edited by Cora Diamond, The Harverster Press Ltd., Hassocks, Sussex, 1976.:⼤⾕弘・古⽥徹也訳『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎編 ケンブリッジ1939年』、講談社、2015年。 ([WLFM]と略記) 

飯⽥隆『ウィトゲンシュタイン―⾔語の限界』、講談社、2005年。

⿊崎宏「クリプキの『探究』解釈とウィトゲンシュタインの世界」、『現代思想』⼗⼆⽉臨時増刊号、vol.13-14、1985年、32-43⾴。 

⽥中⼀之編『ゲーデルと20世紀の論理学③』、東京⼤学出版会、2011年。

野⽮茂樹『論理学』、東京⼤学出版会、1994年。 

⽔本正晴『ウィトゲンシュタイン VS.チューリング―計算、AI、ロボットの哲学』、勁草書房、2012年。

*1:『PU』, §371(邦訳、231 ⾴)

*2:[PU],§309(邦訳、205 ⾴)

*3:[PU],§124(邦訳、104 ⾴)

*4:[BlB & BrB], p.27

*5:[BlB & BrB], p.27

*6:[PU], §7, p.5(邦訳、20 ⾴)

*7:[PU], §1, pp.2-3(邦訳、15-16 ⾴)

*8:[PU], §66, pp.31-32(邦訳、69-70 ⾴)

*9:[PU], §67, p.32(邦訳、70 ⾴)

*10:[PU], §50, p.25(邦訳、56-57 ⾴)

*11:[PU], §47, pp.22-23(邦訳、53 ⾴)

*12:[T], 6.342

*13:[T], 5.552

*14:[T], 5.5561

*15:[T], 5.634

*16:[T], 5.557

*17:[T], 4.211

*18:[PU], §107, p.46(邦訳、98 ⾴)

*19:ラッセルのパラドックスとは、「⾃分⾃⾝を要素として含まない集合全体の集合」の存在から⽭盾が導かれるというパラドックスである。そのような集合R が、もし仮に⾃分⾃⾝を要素にもつとすると、R の定義に⽭盾する。しかし R が⾃⾝を要素に持たないと仮定すると、R の定義より R は R に含まれねばならない。したがって⽭盾が⽣じる。ちなみに現代の公理集合論においては、このパラドックスは集合の定義を明確化することによって解消されている。(Cf. ⽥中 2011, pp.209-210)

*20:たとえば⼆重否定除去則(否定の否定から肯定を導く規則)は直観主義においては定理ではない。

*21:『論考』ではラッセルのパラドックスの解決が試みられている。パラドックスを解決するにあたってウィトゲンシュタインが取った⽅法は、中・後期のかれの哲学とあわせて考えると⾮常に興味深い。というのも「使⽤」を重視するかれの記号論の萌芽がすでにここに⾒られるからだ。「使⽤されない記号は意味を持たない([T], 3.328)」。すなわち、記号は使⽤されてはじめて意味を獲得する。さて、簡単な⾃⼰⾔及のパラドックスを利⽤して、ウィトゲンシュタインの⽅法を概観しておこう。「x は偽である」という命題があったとしよう。この命題中の x に当の命題を放り込むと⽭盾が発⽣するというのが嘘つきのパラドックスである。だが、記号の「使⽤」においてはじめて命題の意味が確定するのであれば、「x は偽である」と、x に代⼊される「x は偽である」は意味的にまったくべつの命題である。すなわち、語の意味というものを使⽤に基づいて考えるならば、そもそも⾃⼰⾔及など不可能なのだ。したがってタイプ理論などまったく余計なものである。これがウィトゲンシュタインの与えた解答である。

*22:[PU], §193, p.77(邦訳、156 ⾴)

*23:[BGM], p.228, (邦訳、231 ⾴)

*24:[PU], §201, p.81(邦訳、162 ⾴)

*25:[PU], §185, p.75(邦訳、151 ⾴)

*26:[PU], §226, p.86(邦訳、172 ⾴)

*27:[WLFM], p.150(邦訳、279 ⾴)

*28:ところでこれは私⾒であるが、物理学における「理想状態」とはまさにある規則が成⽴するように調整された現実ではないだろうか。とするならば、物理学という営みは結局、世界を解明するものではなく、世界を⼈間的なものに(つまり⼈間にとって扱いやすいものに)する営みなのではないだろうか。

*29:[WLFM], p.22(邦訳、32 ⾴)

*30:3 以上の⾃然数 n について x^n+y^n=z^n となる⾃然数の組(x, y,z) は存在しないという定理

*31:コンピュータによる計算や定理⾃動証明は、⼈間から遊離した数学の⼀例だろう。だが逆の⾒⽅をすれば、コンピュータは⼈間の決断能⼒の⼀部を器械的に実装したものとも⾔える。コンピュータが⼈間と同等の数学能⼒を獲得したとするならば、そのコンピュータはある意味でもはや⼈間であると⾔わねばなるまい。

*32:Bouveresse 2014, p.79

*33:Cf. [T], 3.14


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